野出峠を過ぎると下り坂となり、眼下に有明海が広がります。桃源郷を求めて歩き続けた漱石先生。この光景の中、のどかな小天温泉を目前に、どんな想いが去来したことでしょう。
八久保のバス停に出ると、「草枕」に「白壁の家」として登場する前田家本邸の跡や前田家墓地が見えてきます。
「白壁の家」前田本邸
「草枕」の中に、「二丁程上ると、向こうに白壁の一構えが見える。蜜柑のなかの住居だなと思う。−」と書かれているのが八久保の前田家本邸のことであり、一週間近く滞在した漱石は村中を散策し、本邸にも立ち寄ったことだろう。
「−あの蜜柑山に立派な白璧の家がありますね。ありゃ、いい地位にあるが、誰の家なんですか」 −(画工)
「あれが兄の家です。帰り路に一寸寄って、行きましょう」−(那美)
『草枕』より
兄とは、隠居し別邸に住んでいた案山子に代わって本家を継承していた長男下学のこと。明治19年夏の盛りには玄洋社の総帥(後年、国家主義者とし
て高名を馳せる)頭山満が自ら、尊敬する案山子の意向を伺いにこの屋敷を訪れ、下学も同席して会談している。
屋敷の様態は明らかではないが、「2階建ての母屋に2棟の茶室、新旧の蔵と黒門があったということ。新蔵には滔天から頼まれて外国人(イサクアブラハムと思われる)を住まわせたことがあり、人が住めるようになっていたことを聞いている」と下学の孫前田佑子さん(神奈川県湘南市在住)の便りから朧気な輪郭が浮かぶ。
「城下(熊本)まで他人の土地を踏まずとも行ける」というほど栄華を誇った前田家だが、長年にわたる政治活動の上、親兄弟のいさかいによる分裂騒動をきっかけに急激に衰退。明治34年12月24日夜の失火によって本邸は焼失。明治37年7月、案山子が亡くなったのを契機に一家は離散。小天のシンボルともいえた「白壁の家」はついに再建できなかった。
八久保公民舘に隣接した本邸跡(福島さん宅)には、唯一消失を免れた蔵の一部と石垣に当時の面影が見られる。
漱石画「わが墓」のモデル 前田家墓地
有明海に浮かぶ雲仙と思われる中に一つの墓石を配した漱石作品「わが墓」は、この前田家墓地からの眺めがモデルといわれている。
前田家墓地は本邸にほど近く、現在八久保地区の公民館の西側、谷を隔てて有明海を望むところにある。大晦日から正月の数日間の間、
村中を散策していて漱石がここに立ち、こんな場所に自分の身を置けたらとイメージしても不思議ではないだろう。
「僕は帰ったらだれかと日本流の旅行がしてみたい。小天行き杯(など)思い出す」とは、夏目漱石がロンドンから五高時代の同僚山川信次郎へ宛てた手紙。
この頃、英国留学中の漱石は心身共に苦しい状況にあったといい、そんな中、日本での思い出として前田別邸での数日が蘇ったのだろう。さらに、帰国後この時の体験をもとに「草枕]を執筆している。小天はまさに、漱石にとつて桃源郷だったのだろう。
江戸末期から明治に入り、案山子が強大な統帥として君臨した前田家。だが、案山子は湯の浦の別邸近くに自身の墓を建立。兄弟は離散の後、上京したためここに眠るのは案山子の先代以前であるが、唯一若くして亡くなった案山子の次男清人のみ近代的な形の大きな墓を建立、親兄弟が手厚く弔っている。
宮崎龍介思い出の学び舎 八久保小学校跡
八久保の西端に、明台43年に小天東小学校に統合されるまで存続した八久保小学校の記念碑がある。明治百年の記念に区民が建立。碑文は卒業生である宮崎龍介の筆。
明治30年頃、ここに前田案山子の3女ツチの長男宮崎龍介が学んでいた。荒尾の宮崎滔天に嫁いだ槌は、中国革命運動へ没頭し家庭を省みない夫に耐え、石炭販売などで生計
をたてていたという。その際、前田家を頼って預けられた龍介は同校で学び、ハ久保尋常小学校4年の卒業証書を得、さらに隣町の伊倉高等小学校へと進んでいる。
その後、東京大学を卒業し法学士となった龍介は、出版社のアルバイトをしている間に知り合った大正天皇の従姉妹で歌人の柳原白蓮と結婚する。
筑紫の石炭王伊藤伝石衛門の妻として「赤銅御殿」で何不自由なく暮らしていた白蓮が、政略的結婚と併せて夫の素行に耐えかね、自らの自由意思を貫いたこの行動は大正の恋愛事件として全国的な話題となつた。
戦前、父滔天の功績により蒋介石と親交が深い龍介は近衛首相の勅命により日中和平交渉を託されるが、中国侵攻を企てる軍部により逮捕され投獄監禁されたりしている。
晩年、記念碑の建立に際し龍介は直筆の碑文を贈り、この地に想い出を記している。
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